昭和40年12月29日 夜の御理解
今朝から、善導寺の原さんがお届けされます中に、先日、二十六日の土井の共励会が正義さんとこでございました。教励本当に、折角教励さして頂くのであり、折角時間を使うんですから、やっぱりその何かを頂きたい、何かを頂かにゃ、いわゆる自分の心に、いわゆる琴線にふれるもの、願わしてもらい、祈らしてもらいよりましたら、文男先生が見えてから、文男先生の中にです、こういうお話があった。
これだと思うたと云うて、お届けをしておられます。あちらにあの 小学校の一年生ですかね、トヨフミさん、それにナオミさんという四年生か五年生の、女の子と息子の子と二人おります。この頃から、クリスマスの事を話してるんだそうなんですね、その今晩はもうサンタクロースがやってくる、というわけなんですね、そして僕がずうっと神様にお願いしよると、必ずその持ってきてくれるち、何をそのお願いしよるかというと、何かこう、ホタンで行く、何か単車の様なあんなのものらしいんです。
それをもう、ちょっとサンタに願ってるから、必ず持ってくるだろうと云うて、その云ってるんだそうです。姉ちゃんの方が、トヨフミちゃんはそんなこつばっかり云うて、ありゃ嘘よち、ありゃチャーンとお父さんかお母さんかが、晩私達が寝とる時に持ってきて、枕元に置いてやっとんなさるとよ、と、そげなこつは絶対ないと云うそうですたい、ん、もう絶対そげなこつはなか、も サンタがもってくる と それを夫婦の者が横で聞きよってからですたい、ねえ、
もうその信心もあれと同じ事ぞと云うてから、話したことでございます、ね。神様は信ずるものを信ずると仰る、あゝ信じられたらです、例えば よし これが高いものであっても子供の夢を、こわしたくないというのは親の願いなんです。ほんなこと ちった無理してからでん今夜買うてきてやっとけ ち、そして入れてやっとかにゃがっかりするぞ、あしこ信じたものを。
明日今から行ってから買うてやっとけ、と云うてその云うたという話をですね、それだと それを原さんが今朝から此処に、おかげ頂きましたというて話されるんですね、確かにそうです。神様は信ずるものを信ずると仰る。ね、ですからお互いが信心の稽古をさして頂いておるということはですね、神様を信じきる生活にならせて頂きたいと、神様の本当に御守護を受けなければ、神様のおかげを頂かなければ、実を云うたら。
ここ一寸動けんのだと、神様のおかげを頂かなければ、ねえ例えば美味しい食欲を頂いてみつてもです。今日もある方がお参りさして参りましたがです、杯一杯のご飯が、喉を通らん。食べたいと思うから、つがせるともう、ここまで何か吐き気がする様で頂けない。ねえ、神様のお許しを頂かなければ頂けない印でしょうが ね、神様の本当におかげを神様の御守護を信じ、神様の特別のおかげを、私共は信じるという事。
皆さんがです、そこんところの神様は必ずおかげ下さるんだと確信して、日々が過ごさせて頂けるところに私は、難儀を難儀と感じんで済むのじゃないかと思う。夢がもてるところのではなくて、本当に先々が明るいと思うですね、ところがその信じようと思うけれども、信じられないというところにです、私は信心の焦点を置かなければいけない。何故信じられんのか。と。
例えば、私が椛目にこうやっておりさえすればです、椛目に来さえすれば、なる程、神様が生きて御座るなと こう 印を何かの形で見せてもらう、なる程神様の働きというものを、信じんわけにはいけん様にです、けれどもそれは、人の物を見たり聞いたりしてからの確信であるから、それは本当の確信にはならないて、自分自身が頂かなければ、自分自身がこれにいわゆる実感さしてもらうところの神様でなからなければ。
なる程ほんに神様ちゃ 有難いもんじゃあるなあと、人のおかげを見たりおかげを受けておる姿に触れて、神様を信じていくというのは、それは本当の、自分の物になっていない。そこで私の今度の御本部行きという、その問題が出てるんですけれども、その一年間の間をです、日頃頂いておった信心に愈ものいわせて、神様をこれだけは自分の物におったと、これだけは信じる力を頂けておったという。
いわば自分の信心を試すこよないチャンスじゃなかろうかと ね、まあだ 此処にいうなら半とし余りある事でございますから、その間にでも一つ、本気で信心の稽古をさしてもろうて、神様を愈信じれれる。その神様を把握しとかなければいけないと私は思う、ね。そこで神様を日々心の中に、形の上に、身近に頂かしてもらうという事の為にです、神様にお喜び頂ける状態にならなければいけないという事。
信心とは、本心の玉を研くものであり、日々の改まりが第一であり、本気で、限りなく美しゅうならせた頂こうという、そういう意欲した信心にです、神様は必ず感応します、お働き下さる。その働きを、自分のこれに頂かしてもらい、自分の周辺に、頂かしてもろうてです、神様をいよいよ間違いのないお方だなあという、心の中に頂けてくるところに安心があるのです。ね、
いくら信心しよるでも、神様が信じてくれないという人は、いかにその人がです、改まることに、限りなく美しゅうならせて頂く、ということに信心に修行に疎かであることが分かります。此処で私がある意味合いにおいて、神様に頂いておる神様を皆さんに分かすのですから、おかげは受けられます、私がおれば。けども私がなくなったらどうなるか、ねえ 各々が神様を頂いとかなければです。
その頂く稽古をまのあたりにほうら見てご覧と、こう手本を見せながら、此処で教えておるから、習いよかろうが。私が。昔こげなおかげば頂かしゃったげな、昔はこういう奇跡もあったげな、いう様なではなくてです、日々 私が此処でおかげを頂いておる、生きた神様の働きというものを、皆さんに見てもらい、聞いてもらいしておるのであるから、なる程と、それを見せてもろうては、それを自分の物にしていくところの、稽古がたゆまずなされなければいけないという事。
神様を自分の周辺に現していかなければ。先日からもう二十五日でしたかね、井上組の支払いの、何百万という金がです、本当にもう私が これだけ払わしてもらいなさい、大体は もう百万ばかり少なくていいのだけれど、向こうも必要だというておるし、けどもそげなお金、先生何処にありますか、まあとにかく払わしてもらうことにしなさいと、おかげを頂いてから翌日銀行に行ったら、七十八円余るだけきっちりあった。
その日私は、椛目の財産はこの七十八円だといよった。そしたらすぐ、他のところから二十五万の請求がきておる、年末の事であるから、此処に三万、此処に一万という様な金が、まあ十万ばかり要るというわけ。当時 お願いさして頂いておってその、支払いだけはでけた。今朝からも経理の永瀬さんが見えとりましたから、大体久富組に払わんならんとです、あと二十五万 最後の支払い。
あれはあの、どんな風ですか、仕切り書か請求書かきてるんですのなら、この年末払うてしまいなさいと云ったら、キョトンとした顔してから、ありゃ払うたっちたゃよかばってんが、お金がなかじゃなかですか ち云うごたる顔しとるですもん だから、払うという気持ちになって、お願いをしなさいと私が。今日は今朝から、永瀬さんに申しました、ハァ ち云うごたる風で、今日は帰ったんですね。
そして又、それから、二,三時間致しましてから、お餅つきの御用に、頂に見えとるんです 永瀬さんおかげ頂いたよ ち云うて 私が云うて、それこそ、そばってん これは払わんでよかっちゃなかろうかち云うてから、又 委員長に電話かけたりなんか、しよんなさいましたけども、ねえ、もうとにかく払わんならなもんは、年末きれいにすきっと払うてしまいなさい と。
今日 ある方がお参りに参りましてからね、ポケットからこうやって通帳を出すんです。先生、此処の御造営が始まる前から、もう間違いなく椛目に御造営やらがある時に、使わして頂きたいと思うてですね、これは積み立てておりましたのが、先生少しばっかりですけど、こがしこになっております、名前も親先生の名前にしとります、印も押しとりませんけん、お宅のどげな印でんよございますけん、銀行に持って行って頂けば、取れる様にしとりますから、どうぞ御用にお使い下さい、と云うて持って来た。
それが二十三万六千円じゃったね、ここに二,三万はもう本当にきちっと二十五万お払いも出来りゃ又、色々雑多の十万余りの金も今銀行に入っとるから、綺麗に払われるということ。これがですね一辺か二辺ならですね、ハアーふが良かったとか丁度お繰り合わせ頂いたとかではなかったら 私が又ですたいもう何時何時はいくら払わんならん、皆さんお願いしますよと云うてから、私が声を大にして云うておるかなんかならば。
先生があげん云うてござるけん、お供えもせんならんばってんですね、その思いもかけない人が言いもせんのに、それだけの金がこうやって集まってくる、しかも明日払わんならんのが今日集まってくる ねえ、だから、こういう様な事は私はまあ 云うならば椛目の独断上というて、これは信心しとりゃ誰でも頂かなければならんのだけれども、頂けないところに、受けられないものがあるんだという事。
椛目ではそれを、私はこうして如実にあらわしておる。それを見たり聞いたりして下さるのですから、なる程、神様 間違いないなあということが分かる。その 分っただけじゃいかんから、自分たちの物にしていかなければならんという事。神様を愈信ずる力というものがでける。子供でもです、いいえ、必ず明日はサンタがその新車のこう自分で動くとの機械のね、なんかこうあげんとがあるとですよ。
それが高いものらしいんですよ、それをチャーンとサンタにお願いしとるけん必ず来る、姉の方がそげなことはなかと。それはもう云うなら迷信て例え迷信でもです、これだけ信じたらおかげになるです。だから迷信も成心の過程だという道すがらだということ 私は頂いとります、つまらん迷信だから、迷信をせろというわけではないですけども、迷うたことを信じておると、そういう事が起こってくるから不思議です。ね、
ですから、例えば、つまらぁん此処のあたりで申します迷信があるでしょうが。ね、家を建てるのに此処に鬼門ずんじゃったのはいけんというのは迷信じゃろ、結婚するのに日柄が悪いといけん と云うのは迷信やろ だからそういう様なものんをです、迷信をだから、迷うた事でも信ずると、だからそういう困った悪い事、やっぱりカサが悪かったじゃろ、やっぱり日柄が悪かったじゃろ という様な結果が起きてくるです。
ですから、それが 信ずるということの、やはり過程ではある、道すがらではある、信心は何処までもそれをです、なる程信じさせて頂かなければおられない信、体験というものをもとにしてですたい、間違いのない神様を、天地の道理に合うたところのおかげ、天地の法則に叶うたところのおかげ、そういうおかげを私共が頂き、現していくというところにです、愈神様の間違いなさというものをこれに頂いていく事がでける、それを たまりたまっていくところに私は、それを信心の徳とこう思う。
神様が間違いなしに下さる、誰がなんと云うてもおかげ頂く、とこう確信しておったら、とにかくちっとはです、無理がいっても、あれがあげん信じ切っとるもんじゃけん、あれの夢をこわすわけにはいかんじゃないか。今夜買うて来てから、枕元に置いてれという様なかげは頂けるもんだと それこそ 私は確信致します。皆さんも、そこんところを自分のものにしておいでらなければいけんと思うですね。
どうぞ。